オハナピアノ教室 講師
諸岡あや子
私が「育ちの根っこを見つめる」ピアノ講師になるまでの物語
3歳:ピアノを習い始め、ピアノの先生を夢見る
自宅にピアノがあった私は3歳の時にピアノを習い始めました。
当時、まだ幼稚園に入っていなかった私にとってピアノの先生は初めて接する家族以外の大人の方でした。
先生のことが大好きで先生の真似をして弾こうと必死に先生の指を見ていたことを覚えています。
出張レッスンだったので、家族も他の生徒さんの演奏を耳にする機会はなかったのですが、初めての発表会で周りの親御さんから「先生と同じ様に弾いている」「子どもなのに音がきれい」と言われたそうです。
左利き・早生まれ・過干渉の中で育ったこともあり、幼稚園では “自信がない子ども” でしたが、週に1回ピアノの先生に会えることがうれしくてピアノをよく練習していました。
先生の手を見て音を聴いて弾く子どもだったので、楽譜は一切読めない(読まない)まま、オルガンピアノ4・バイエル下巻まで進みました。
その頃の夢はすでにピアノの先生でした。
6歳:厳しい先生に変わり、ピアノを一度やめる
6歳の時、先生が体調を崩されて引っ越されたため、突然先生が変わってしまいました。
新しい先生は新卒の方でしたがとても厳しく、私はレッスン日は必ず朝から泣いていたそうです。
あまりに嫌がる私の姿を見て両親はピアノをやめさせることにしたそうです(その後、近所の生徒さんも同じ理由で全員やめました)。
その後、ピアノを触ることはほとんどなくなり、しばらくは全く興味がありませんでした。
小学3年:ピアノとピアノの先生になる夢を再開
小学3年生のある日、教室にあるオルガンを弾いて遊んでいるクラスメートの曲が耳に入ってきました。その曲は幼稚園のころ自分が弾いていた曲でした。
自宅に戻った私はピアノのフタを開け同じ曲を弾こうとしたのですが指が全く動かず、残してあった楽譜を開いてみましたがまったく読めず断念しました。
その後も教室で自慢げにオルガンを弾くクラスメートにメラメラと嫉妬心がわき続け、どうしても『もう1度ピアノが弾けるようになりたい』と思い始め母親に懇願しました。
もう辞めないという条件で新しい先生を探してもらい、当時9歳になっていた私は先生のお宅へ通う形でピアノを再開しました。
ピアノは1からのやり直しでした。指も少しずつ動くようになり音符も必死に覚えている中、教室で入れ替わる際に会う年下の生徒さんが自分よりずっと先の楽譜を持っていることが悔しく、自分が恥ずかしかった気持ちは今でも覚えています。
しかしそんな私の気持ちを折れさせず、またピアノの先生になりたいという夢を再び持たせてくださった、優しく且つきちんと教えてくださる先生でした。
遅い時間のレッスンの日は徒歩で自宅まで一緒に送ってくださったり、コンサートに行きたいけれど親の都合が合わなかった際にも一緒に連れて行ってくださったりと、とてもよくして頂きました。
ピアノの先生になりたいという私の夢へすすめる様に基礎のレッスンもきちんとしてくださいました。
11歳:初めての発表会を目前に、再び先生が変わる
11歳の時に、ピアノを再開して初めての発表会に出ることになりました。曲は『エリーゼのために』でした。
当時の私にはまだちょっと難しいレベルで、それに同級生はもっと難しい曲を弾いていることは知っていましたが、楽譜をもらった時は嬉しくて必死に練習をしました。
ところがもう少しで発表会という時、突然ご結婚が決まられ、先生は転勤されてしまいました。発表会は開催されないまま、私も教室を変わることになりました。
新しい先生は学校を卒業されたばかりの若い方でした。
再び突然の先生交代でテンションは下がったまま、ピアノの先生になりたいという気持ちだけでレッスンに通い続けていました。
中学時代:短大の音楽科を目指す
中学に入った頃、母から「ピアノの音が汚くなっている」と指摘されます。
音色だけが取り柄だった私はショックを受け、別の先生を探してもらうことにしました。
紹介していただいた先生は私の演奏を聴き、当時練習していたソナチネを私から取り上げバイエルへと引き戻しました。
今ではあの時、指の動かし方や音の出し方をきちんと矯正していただいたおかげで音色も取り戻せ、色々な曲が弾けるようになれたことにとても感謝していますが、その頃は「ただでさえ出遅れているのに今更バイエル?中学生なのに・・」という焦りと「これでピアノの先生の道へちゃんと進めるんだ」という希望との狭間に立っていました。
私はピアノに集中するため部活と塾をやめ、地元にある短大の音楽科を目指すことにしました。
高校時代:恐怖心の芽生え、受験と挫折
高校ものんびりした学校に通えたため、変わらずピアノを中心にした生活を続けていました。
中学、高校と出た発表会では緊張するどころかいつもより落ち着いて演奏をしていた私でしたが、高校2年生の夏に開かれたミニコンサートで初めて『緊張』というものを体験します。
また、この教室では音楽科を受験する際には必ず受験対策の先生につくことになっており、先生も私のレッスンをどの先生にお願いするか悩まれている時期でした。
その中には私がずっと習いたいと思っていたA先生がおられ、先輩方からも私には穏やかなA先生が一番いいと思うとお聞きしていたので、教室の先生に希望を伝えたのですが「もっと厳しいB先生の方が良い」という判断で別の先生のところへ通うことになりました。
B先生は多くの生徒さんを音大合格へと導かれていらっしゃいました。
とても細やかで的確な指導をされる先生で、私の演奏力が伸びたと周りからも言われる様になっていました。
しかし、B先生はピアノ以外の面でもとても厳しい方で、教室に向かうバスの中からレッスンが終わりバスに乗るまで私の神経は張り詰めていました。
B先生に質問をすることもできない私は、突然やってくる『緊張への恐怖心』があることも言えず心を許せる先生がいない中、不安と恐怖のストレスで痩せはじめていましたがそのことを表には出さず練習を続けました。
しかし、その恐怖心は受験当日の待ち時間に襲ってきました。不安しかない私はステージ上でピアノが弾けなくなり、合格間違いなしと言われた志望校の推薦に落ちました。
教室の先生に結果を伝えると開口一番、「やっぱりA先生にお願いすれば良かった」と言われ、受験に失敗したことよりもその言葉にショックを受けたことを覚えています。
教室の先生との距離を感じ始めたのもこの頃でした。
負の連鎖は止まらず、その後も受験に失敗し続け、なんとか一般試験で志望校に合格しましたが心は折れまくっていました。
音楽科時代:卒業目前で進路の話が反故に、ヤマハグレードを目指す
入学した私はB先生の後輩でもあるC先生からレッスンを受けることになっていました。
しかし当時の音楽界は上下関係が厳しくつながりも重要視されていた為、C先生は「私はB先生に頭があがらない。先生のもとで学んだあなたを指導することはできない。」との一点張りで卒業まで形式上のレッスンしか受けられませんでした。
何のために学校に入ったのか、何を学べばいいのか分からなくなり始めた私は教室の先生に相談をしました。先生は「卒業後のピアノ教室を準備したからとにかく卒業するように」「大手音楽会社の試験を受けたりしないように」と仰られ、私はその言葉に従い短大へ通いつづけ卒業の時期を迎えました。
ところがある日、先生から連絡があり「卒業後は自力で頑張りなさい」と突き放されてしまいました。
卒業まであと2ヶ月。大手音楽会社の試験など1度も受けていない私は途方にくれ、楽器店の方から紹介していただいたD先生のもとでヤマハのグレードを目指すことにしました。
卒業後:ヤマハ音楽教室のピアノ講師に
在学中から知り合いのお子さんのピアノレッスンをしていたので、卒業後は自宅でピアノ教室を開きグレードの試験に臨みました。
試験は受験時のトラウマから失敗続きでしたが、D先生に支えていただきながらグレードを取得。
卒業から半年後、D先生の紹介でヤマハ音楽教室のピアノ講師として働き始めることができました。
講師になってすぐに様々な年齢のお子さんのレッスンを担当させていただき、思春期の子どもさんの心の中の葛藤や学校や家でのできごとが、おけいこ(ピアノ)にも影響していることを感じ、ピアノの技術面だけでなく、もっとお子さん1人1人と人として向き合えるようになりたいと思い始めました。
20年ほど前、素敵な先輩と発表会を通じて出会うことができました。
今でもピアノデュオのパートナーとして一緒に演奏してくださるピアノ講師の大先輩です。
先輩は私のトラウマに付き合って下さる方で、発表会で生徒さんの前で弾きたいけれど、ソロ演奏が怖いことを伝えると、「子どもたちがびっくりするような連弾をしよう」と仰ってくださいました。
それ以来、発表会を盛り上げるようなパフォーマンスにも付き合っていただき、病院や企業様のイベントでの演奏活動も一緒に行ってきました。
現役を引退された今でも、私の教室の発表会に駆けつけて一緒にパフォーマンスしてくださいます。
先輩と出会った頃、再び自身の先生探しを始めており色々な方のご紹介で素晴らしい先生方からご指導を受けることができました。
また、演奏活動からのご縁でなんと、憧れのA先生のレッスンも受けられるようになりました。
A先生から学びたいと願った時から10年以上の月日が過ぎていましたが、本当にお優しくて素敵な先生で、初めてのレッスンの後は涙が出てしまうほどでした。
しかし、ソロの本番で緊張して弾けなくなるトラウマは続いており、ご指導いただいている先生方の顔に泥をぬっているのではないかと、トラウマから抜け出せない自分への苛立ちが募っていました。
10年後:教室を閉じヨーロッパへ、運命的な先生との出会い
ピアノ講師として10年が経ち、トラウマから抜け出せないのは努力が足りないせいなのか、これでは教室に通って下さるお子さんたちにも良いレッスンができていないのではないかと思い始め、自分と音楽とのかかわり方について見つめななおそうとヨーロッパへ行くことを決めました。
ピアノ教室を閉じるため、通ってくださっていたお子さんたちには、他のお教室へ移っていただくという昔の自分と同じ体験をさせてしまいましたが、私はイタリアで運命的な先生と出会い、音楽やピアノへの向き合い方が変わります。
もともと手の小さな私は腱鞘炎を起こすことも多く、当時弾けない曲がたくさんありました。
しかし、イタリアで紹介された先生は手が小さく、それでいてフィレンツェの音楽院を首席で卒業。学生の頃から国内外でも演奏活動をされてきた方でした。
彼女のレッスンは手の動かし方も独特で、手が小さい人が鍛えるべき筋肉や子どものころにやっておいた方が良い練習方法など、レッスンを通して多くのことを学びました。
在学中ミニコンサートに出演することになり、待ち時間が長いと恐怖心が出やすいことに気づいていた私は「できるだけ早く弾きたいと」伝えていたのですが出番は後ろから3番目。やはり途中で弾けなくなり私はショックと恥ずかしさで部屋を飛び出しました。
先生はすぐに追いかけてきて「ごめん!早く弾きたいって言ってたのに、ついうっかり後ろの方にしちゃった。あなたは緊張するから早く弾きたかったのよね!本当に私が悪かったわ。」と謝られたのです。
大の大人が緊張するから早く弾きたいということを『わがまま』『未熟』ではなく『大切なこと』として認めてもらえたことで、こんなにも心が救われるのかととても驚き、更に不安が『希望』へと変わり始めるきっかけともなりました。
それ以来、先生が横で見守っていてくれるんだという安心感や信頼感が強くなり、次のコンサートではトップバッターとして演奏させていただき、最後まで演奏することができました。
その後のコンサートも途中で弾けなくなるということはなくなり、技術面だけでなくメンタル面もサポートできる講師になろうと強く思うようになりました。
帰国後:リトミックと幼児教育の勉強を開始、『そだちの根っこをみつめるリトミック教室』を開講
帰国後は「小さな手のためのレッスン」をテーマに子ども専門のピアノ教室としてレッスンを再開し、演奏活動なども行いながら1年のうち1カ月間はイタリアでピアノを学ぶというスタイルを繰り返していましたが、2013年に右手の甲を骨折。
ピアノ講師を続けられなくなるかもという境地に立ち、他にも音楽で何かできることはないかとリトミックの勉強を始めました。
その頃のピアノ教室は小さなお子さんばかりだったので、歌と左手の伴奏で対応していましたが、そのおかげで苦手だった『歌いながら伴奏をすること』に慣れ、その後のレッスンでも助かっています。
リトミックの勉強を始めたことで幼児教育への関心が深まり、日本こども教育センターの認定講師になった2015年から2019年まで、未就園児さんから未就学児さんの親子を対象にした『そだちの根っこをみつめるリトミック教室』を開講しました。
このレッスンには、子どもの頃に育んでおきたい生きる力の基礎づくりの要素を、音楽あそびや製作活動の中にたくさん盛り込みました。お子さんのどこを今見つめてほしいのかというポイントも保護者の方に伝え、一緒にお子さんたちの成長を見守っていきました。
この教室を開いたことがきっかけとなり2016年には一般の方向けに「育ちの根っこを見るススメ」(10回)セミナーを主催し子育て中の方や保育現場で活躍されている方々にも賛同を得ました。
また2016年~2018年は春日市の施設で、0歳~3歳の親子さんを対象にした気軽に楽しめる『親子でわくわくリトミック教室』を開催。こちらには200組以上の親子さんが参加してくださいました。
現在に至る
現在は自宅のピアノ教室で、2歳さんからのプレピアノや主に幼児から中学生までのピアノの指導にあたり、2017年~就学前基礎教育インストラクターとして幼稚園でのレッスンも行っています。
また、異年齢のコミュニケーションを目的とした、3歳~小学生のリトミックフラ教室や、介護予防フラダンス教室を定期的に開催しています。
資格等
- ピアノ講師(ヤマハ演奏・指導グレード5級)(PSTA会員)
- リトミック講師(NPO法人日本こども教育センター認定)
- フラ(ダンス)インストラクター(文部科学省認可協同組合フラ指導者支援ネットワーク正会員)
- ハワイアンリトミックインストラクター(ふれあいリトミック協会〈元ベビーセラピスト協会〉認定)
- 就学前基礎教育インストラクター
- 介護予防健康アドバイザー
- Studio音花~Ohana~主宰